インタビューして頂きました。

インタビュアー・齊藤 仁重さん

今回、私が取材をさせていただいたのは、東京を拠点にフリーランスのキダリスト・作編曲家としてご活躍をされている曽根裕貴さんです。

曽根さんは有名なテレビCM、テレビ番組、企業PVなどの音楽を手掛けている一流の音楽家であり、私としては是非皆様に曽根さんの存在を知っていただきたかったのです。

今回、曽根さんが私の取材依頼に快く応じてくださいました。

この取材記事は、アーティストの世界をイメージさせるような構成で作成しております。

サロン生の方々の中で、異色の光を放つプロのミュージシャンのストーリー。

では、始まります。

『音楽を辞めようと思ったことは1度もない』

ストーリーを取材する場合、私はどん底だった頃のことを伺うことにしている。

俗に言う苦労話である。

・辞めようと思った
→そこから歯を食いしばって這い上がった

この展開はストーリーになる。

こういう下心があったうえで、曽根さんに「音楽を辞めようと思ったことはありますか?」と聞いた。

それまでのやりとりにおいては温和で、物静かで、ミュージシャン特有の繊細な雰囲気を醸し出していた曽根さんであったが、この質問をした瞬間にだけは放っていたオーラが変わっていた。

「今まで音楽を辞めようと思ったことは1度もありません」

この言葉にはとてつもない力がこもっていた。

私はドキッとした。

これは今まで曽根さんが積み重ねてきた人生の中からの叫びのような、そんな印象を受ける重みのある響きであったからだ。

『15歳でギターに出会う』

曽根さんは岐阜県岐阜市で育った。

音楽と出会ったのは中学3年生の頃。

学校が嫌いでサボりがちだったが、

たまたま出てみた音楽の授業で運命の相手との出会いを果たすことになる。

運命の相手、

それはクラシックギターだった。

仲の良い友達がクラシックギターを上手に演奏している姿を目撃した瞬間、背筋がゾクっとした。

「自分も弾いてみたい」

突き抜けてくる衝動に、魂ごと持っていかれてしまった。

今まで感じたことのない高揚感が、そこにはあった。

家に帰り、両親に胸のうちを明かした。

「ギターが欲しい」

ご両親は、息子が自分から何かをやりたいという意思を見せてきたことに驚いていた。

父親の弟は、昔プロを目指して音楽をやっていた過去を持っている。

「息子がギターを欲しがっている。初めて自分からやりたいことを言ってきたんだ」

それを聞いた父親の弟が、そういうことならと曽根さんにギターをプレゼントしてくれた。

自分のギターを手に入れたその瞬間、まさに時が止まったかのようだった。

そしてこの瞬間には、すでに生涯をかけて音楽の世界で生きていくという覚悟ができ上がってしまったのかもしれない。

無我夢中でギターに打ち込んでいく日々が始まった。

これは反抗期という、荒んだ心を持った少年の心に光を照らしてくれるような眩しい日々の始まりでもあった。

ここから学校生活も変わっていき、担任の先生が働きかけてくれたおかげで何とか高校にも入ることができたのである。

『父親からの勘当』

高校生活が始まった。

しかし、入学前にはあると聞かされていたギターサークルがこの学校にはなかった。

そして何より、

担任の先生との折り合いがつかなかった。

ギターのサークルはない、

先生が大嫌い。

中学の頃のように学校をサボりがちになり、ついには高校を辞めてしまうことになる。

入学から半年で高校を中退。

この事実を知った父親が大激怒した。

「お前なんか勘当してやる」

こうして家を追い出された後、友達の家を転々とする生活が始まっていくのである。

『上京への準備』

この時期には決意をしていた。

「東京に出て音楽で成功する」

この時期からバンドを結成し、本格的に音楽活動を始めていくことになる。 

「200万円を貯めてから上京する」という目標を立て、土方仕事で資金を稼いでいった。

土方仕事はキツかったが、夢のためだと考えれば苦にはならなかった。

仕事以外の時間はバンドの練習に費やして、ギタリストとしての実力を磨きながら資金が貯まるその時を待っていたのだ。

『予想外の事態に見舞われる』

ついに資金は貯まった。

20歳になっていた。

いよいよ東京に行く。

バンドのボーカルと2人で上京することになっていたから、曽根さんは一足早くに東京に引っ越していた。

ボーカルとのルームシェア用にと2部屋あるアパートを探して、曽根さんはそこで暮らし始めた。

しかし、ここで思わぬ事態が起こることになる。

突如、ボーカルが上京を辞めると言い出したのだ。

すでにルームシェアの部屋を借りてしまったから後戻りはできない。

1人で暮らすには家賃が高すぎる。

しかも、岐阜での生活しか知らない少年は、東京での生活費がどれくらいかかるのかを知らなかったのだ。

のしかかってくる多額の生活費に愕然とした。

昼は楽器屋、夜はステーキ屋。

バイトを掛け持ちして働いた。

ここからは音楽をやる時間もなく、生活に追われるだけの2年間を過ごすことになってしまう。

「一旦、地元に戻ってやり直そう」

念願であったはずの東京ではあったが、こうして志半ばで岐阜行きの電車に乗り込むことになってしまったのである。

『両親の離婚』
 
曽根さんの心に深く影を落とす出来事が起こっていた。

曽根さんが家を出た後、両親が離婚をしていたのだ。

息子を勘当した父親。

息子を守りたいと父親と対立した母親。

曽根さんが原因で両親の間に溝ができてしまったことは間違いない。

結局、1人きりになってしまった母親。

ただでさえ曽根さんは長男である。

ここには責任を感じている。

いつか母親の面倒を見てあげなきゃいけない。

絶対に音楽で成功してみせる。

この思いがより一層強くなっていった。

『青木和義氏との出会い』

岐阜に戻り、バンド活動を再開した。

一回り年上の先輩ばかりというメンバーの中に入れてもらって、たくさんのことを学ばせてもらいながら活動を続けていった。

その頃、とあるライブで対バンしたバンドの中に特別な光を放つ男がいた。

メジャーバンド「T-BOLAN」のドラムス、青木和義氏である。

この時期、T-BOLANはボーカルの森友嵐士氏が声が出なくなるという事態に陥り活動を休止していた。

ここから曽根さんと青木氏との親交が始まることになる。

曽根さんは資金が貯まったら、再び上京しようと思っていた。

ある時、何となく青木氏にそんなことを話したら、青木氏から「東京にくるなら一緒にやろう」と誘ってもらえたのだ。

これはちょうど資金も貯まって、上京しようと思っていた矢先の出来事であった。

偶然とは言いがたいタイミングで、青木氏から東京へのルートを作ってもらうことができたのである。

『東京での再出発』

再び上京し、青木氏と一緒にバンド活動を始めた。

東京で再起をはかるに当たって、ある思いがあった。

自分は音楽活動をずっと続けていきたい。

しかし、ロックしか知らなければ音楽だけで食べていくことは難しい。

だからこそ他の音楽も学んでいかなければならない。

この時期にはもう1つ大切な出会いに恵まれることになる。

江藤雅樹氏との出会いである。

この江藤氏に弟子入りする形で作編曲を本格的に学ばせてもらった。

演奏するだけではなく、自分でも音楽を作れるようになりたい。

音楽を仕事にするためには、自らも制作側に回る必要があったのだ。

青木氏とのバンド活動と並行して、作編曲の勉強も続けていった。

『快進撃が始まった矢先の出来事』

青木氏とのバンドとは別に、曽根さんがリーダーを務めるバンド「COME AROUND」を結成した。

このバンドで、川崎で行われた「Kawasaki Street Music Battle!」においてトーナメントをトップで勝ち抜き決勝へ進出。

結果は準優勝だったが、この頃には自分の可能性を感じられるようになっていた。

すべてがうまく行き始めたと思った矢先、青木氏がバンドを辞めると言い出したのだ。

青木氏が抜けたバンド。

魂を失ったかのような感覚に襲われ、曽根さんも後を追うようにバンドを脱退する。

そして、ここからは自分のバンドに集中するようになっていくことになる。

『江藤氏からのお誘い』

ある時、足を骨折するというアクシデントに見舞われることになった。

酒屋で配達のアルバイトをしていたのだが、足の骨折により仕事ができなくなってしまったのだ。

この事情を江藤氏に話したら、江藤氏が「うちで一緒に働かないか?」とお誘いをくださった。

この江藤氏の言葉に甘えて、江藤氏の会社「BIGMADE MUSIC」で一緒に働かせて
もらうことになった。

この「BIGMADE MUSIC」では生徒を持つようにもなり、生徒に作編曲などを教えるようにもなっていった。

『SONE MUSICを立ち上げる』

そして36歳の時、自身の会社「SONE MUSIC(ソーン ミュージック)」を立ち上げることになる。

これにはキッカケがあった。

「BIGMADE MUSIC」にいた頃、電通出身でフィルムプロダクション「Plus B Music Productions」を立ち上げていた長谷川裕之氏と知り合っていた。

長谷川氏は海外のフィルムプロダクションに所属していた経歴を持っていて、この海外のコネクションを最大限に生かしたワールドワイドな活動を展開していた。

現在でも「Plus B Music Productions」は海外の案件に強いプロダクションであり、世界的大企業を相手に映像制作を行なっている。

日本では「B’z」やEXILEのATSUSHIがプロデュースする「COLOR」のPVを手掛けていることでも有名。

ある時、長谷川氏が「曽根は独立した方がいい」と言ってくれた。

「自分も電通から独立して今がある。曽根が独立したら仕事を振ってあげるから」

江藤氏の下にいたのでは、いつまでたっても江藤氏を超えることはできない。

散々迷った挙げ句、江藤氏に独立したいという気持ちを伝えたのであった。

『そして現在』

現在は「SONE MUSIC」と並行して、(外注という形で)「Plus B Music Productions」のサウンドプロデューサーも務めている。

曽根さんがこれまでに音楽を提供してきたテレビCMがすごい。

ザッと並べただけでも、
・SONY(ブラビア)
・ムヒ
・ロート製薬
・ジョンソン・アンド・ジョンソン
などなど。

一流のテレビタレントが起用されている有名CMばかりある。

また、
・テレビ番組(オープニングテーマ曲を含めた音楽全般)
・企業PV

など多数の媒体に音楽を提供している。

『最後に』

曽根さんはご自身の半生を振り返りながら、「自分の置かれた状況には意味があると思うんですよね」と語った。

一見、それはネガティブな出来事に思えるのかもしれないが、その中にこそ素晴らしい出会いが待っていたりもした。

偶然とは言いがたいタイミングで、運命の出会いを果たすこともあった。

どんな状況に身を置かれたとしても、振り返ってみるとそこには意味があったのだと思うことができる。

曽根さんはまさにそんな人生を歩んできた。

ある時、曽根さんの母親がこんなことを言ってくれた。

「音楽に出会ってから笑うようになったね。それまでは笑ってる顔なんて見たことがなかったのに」

曽根さんの人生に笑顔を与えてくれたのが音楽だった。

魚は水の中でしか泳げないように、曽根さんもまた音楽の中でしか生きられないのだ。

15歳でクラシックギターと出会った少年にとって、音楽はその瞬間から自らのレゾンデートル(存在理由)になっていった。

「音楽をやっていて嬉しい瞬間はありますか?」

この質問をした時、曽根さんの顔がパッと明るくなった。

「音楽にはすごい力があると思うんです。人を変えてしまう力があると思うんですよね」

音楽によって救われてきた自分。

音楽によって変わることができた自分。

だから、自分も音楽を通して誰かの人生を照らしてあげたい。

たくさんの人たちを笑顔にしていけるような、音楽が秘めている素敵な可能性を追い求めていきたい。

私はこの取材を通して、音楽の世界に魅せられた男の生き様に触れることができた。

「音楽を辞めようと思ったことは1度もない」と、そう語った男の心の叫びに触れることができたのである。

『追記』

曽根さんは格闘技が大好きで、朝倉兄弟の大ファンだという。

私も格闘技が大好きで朝倉兄弟の大ファン。

互いに、こんなことでも意気投合していた。

曽根さんが選手の入場テーマ曲を制作したら素晴らしい作品になるだろうなと思う。

選手がこれまでに歩んできた道のり、格闘技への思いを曽根さんが音楽に起こしていく。

その音楽に合わせて選手が入場してくる。

想像しただけでもワクワクしてしまった。

この取材の中で、曽根さんから何度も素敵な言葉を聞くことができた。

「誰かを笑顔にするために音楽を作っていきたい」

そう語っていた時の曽根さんの表情が忘れられない。

男の私から見ても男前であると思う曽根さんの顔が、より一層素敵に見えた。

曽根さんは音楽を奏でるという特別な力を持っている。

そして、この特別な力を誰かを笑顔にするために使っている。

だからこそ、曽根さんは輝いて見えるのではないだろうか。

「自分が授かった特別な力は誰かのために使った時にこそ、そこに光を宿すことができる」

私は今、こうして取材対象を輝かせるためにと文章を書いている。

私の文章を書くという力は、今この瞬間にこそ最も輝いているのかもしれない。

「音楽も文章も同じですよ」

曽根さんはこう言ってくれた。

例えば、素敵な物語を誰かに伝えようとする。

ある人は音楽でその物語を伝え、

ある人は文章でその物語を伝える。

私も曽根さんのように、自分が授かった力を誰かのために使っていきたいと思った。

誰かを輝かせるために、この文章力を使っていきたいと思えた。

大切なことを気づかせてくださった曽根さんに心からの感謝をしたい。

そして、最後に言いたい。

曽根さんはカッコいい。

そして、あなたはとびきり素敵であった。

曽根裕貴さん、

本当にありがとうございました。

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